ブックタイトルセコム上信越創立50周年記念
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セコム上信越創立50周年記念
11ネス客は池袋や銀座の東京温泉にしけ込み、夜行列車の疲れをとってから、面会先の午前九時始業にむけて動くのだった。しかし、野沢謹五には温かい温泉浴で休むお金がない。古新聞にくるまって飯田亮らが出勤する時刻まで山手線のガード下で待ったのだった。一の食堂王と謳うたわれた立志伝中の人物だ。当時は新潟県人会の会長もしており、面倒見がいい。加藤清二郎は出資を約束したうえで、野沢謹五にこう助言した。 「おまえさんには、まだ信用がついてない。だから新潟には〝越後の三吉〟という財界人がいる。これを後ろ盾にしたらいい。俺が話を通しておくから、頼んでみるといい」■夜行列車「越路」 野沢謹五は刑務官を辞職したことをまだ妻さゑ子に話していなかった。ある日電話で新潟駅前の喫茶店に呼び出し、初めてさゑ子に辞職と会社計画のことを告げた。このころには刑務官の退職金も底を突き、上京する汽車賃にも事欠くようになっていた。当時、急行列車で往復料金が三六六〇円かかった。それを知ってからさゑ子は実家の母に頭を下げ汽車賃を無心するしかなかった。 夜行急行「越路」が深夜一〇時四五分に新潟駅を出発して、上野駅に早朝五時四一分の到着だった。多くのビジ「俺の名刺を営業先で好きに使ってくれていい。頑張ってやってみろ」■越後の三吉 加藤清二郎の言に従い、野沢謹五は〝三吉〟を順次尋ねた。和田商会の和田閑吉は新潟商工会議所会頭だった。アポイント無しで尋ねたが、会頭室に迎えてくれた。話を聞いて和田会頭は「きみ、そんな警備業なんて東京ではいざ知らず、新潟では難しいよ」と言う。しかし出資は了承してくれた。 敦井栄吉は北陸瓦斯の社長。かれも出資に応じてくれた。三人目の駒形十吉は長岡市の大光相互銀行(現・大光銀行)社長である。無言の威圧感がある駒形社長を前に、野沢謹五は警備業が社会正義に貢献できる商売であると信じていると力説した。駒形は「うん、うん」とうなずきながら黙って聞いた。それから数日たって、電話があり「今すぐ、長岡にこれるか」という。飛んでゆくと、駒形十吉のハンコを押した名刺をひと箱わたして「この間の話は面白かった。俺の名刺を営業先で好きに使ってくれていい。頑張ってやってみろ」と激励してくれた。第一章前史駒形十吉(写真/新潟日報社)敦井栄吉(写真/新潟日報社)和田閑吉(写真/新潟日報社)